神田軍閥
七月革命で日本人民共和国が崩壊した際、首都東京には、日共を見限り新政権に寝返った勢力が少なからず存在した。高坂もその一人で、彼を中心とする「神田派」は政官界に一定の影響力を持った。太政大臣日基建の側近として後継者に数えられ、光復帝雲母日女からも一応の信頼を得て、左京職に任命された。
- 左京は北城の君主から観て左側、即ち首都の東方を管轄する意。
浜名湖の悲劇
八月事変で日基首相が討たれると、クーデターに批判的な議員・将兵らを率いて反乱軍を迎撃し、その鎮圧に貢献した。事後、九州出身の左派である吉野菫が新首相に指名される政局となったが、これに不満を抱くアイギス党(川口秀和)ら右派は、高坂を対抗候補に擁立せんとした。しかし、アイギス派の暴発を危惧した禍津日原総督府(鷹司智子・落合航・八洲精士郎)によって川口らは粛清され、高坂も宰相の座を逃した。
- 「良識派」として知られる落合が、アイギス党への暴力的抹殺に加担した一因として、同性愛者である高坂への私怨があったとも言われる。
落合はキリシタンの立場から同性愛を敵視していた上に、高坂を「戦争を知らない無責任な政治屋」と嫌っていた。
このような事情により、吉野政権下では国政と距離を置き、権限の少ない神田区長に事実上左遷されていた。しかし青鳥事変が勃発し、東京軍が星川共和国への侵略を開始すると、これを阻止せんとしていた十三宮聖や神田大隊の要請もあり決起。将門神社を陥落させ、秋葉原一帯を占領した。戦乱の終結を見届けた後も、上杉橄欖と共に政治活動を続けている。
備考
- 同性愛者なので、法律上は結婚できない。
- 生き残る事を重視するリアリストで、あまり明確な思想は持っていないようだが、理想と現実に葛藤する落合を叱咤激励するなど、平和への使命感も窺わせる。
- 有事にはボーガンで戦闘し、複数本同時発射可能な仕様になっている。
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